パリ、モンソー公園で庭の歴史の旅 [上]

モンソー公園(Parc Monceauu)は、凱旋門からも近い、古き良きパリを感じられるオスマン建築が立ち並ぶ8区の高級住宅街にあります。隣接する18世紀の室内装飾コレクションで有名なパリの邸宅美術館、ニッシム・ド・カモンド美術館や、東洋美術コレクションで有名なセルヌスキ美術館などとともに、公園がほぼ現在の形に整えられた19世紀当時、さらには遡って18世紀の庭園の面影を伝える貴重な場所でもあります。

モンソー公園の歴史〜シャルトル公のフォリー[18世紀]

フランス革命前、18世紀のパリの街は、現在に比べてずっと規模も小さい中世からの城塞都市でした。モンソー公園がある場所は、現在ではパリの中心地といっていいくらいですが、当時は郊外の田園地帯、モンソー平原と呼ばれる場所でした。その地所をシャルトル公(のちのオルレアン公ルイ・フィリップ2世)が結婚を機に購入し、シャルトル公のフォリーと呼ばれる建物を建てさせます。数年後に画家カルモンテルに設計を依頼し、当時最新流行のアングロ=シノワ式庭園(またはジャルダン・ピトレスク(絵画様式庭園))が作られました。

ちなみにシャルトル公はルイ16世の従兄弟、フランス有数の大富豪で、王室に対抗し最初の自由貴族と呼ばれることになった人物。芸術文化やモードのトレンド・セッターだった王妃マリー・アントワネットの政敵でもありました。邸宅や庭園を作らせるにあたってのライバル意識はお互いに並々ならぬものがあったはず。

あらゆる場所、あらゆる時代を集めた御伽の庭

さて、期待を背負ったカルモンテルが打ち出した庭園のコンセプトは「あらゆる場所、あらゆる時代を集めた御伽の国」。サプライズが喜ばれた当時の庭園の演出にはぴったりのさすが手慣れた提案です。

Attribué à Carmontelle (1717-1806 ). "Vue des jardins de Monceau : Carmontelle remet les clefs du jardin au duc de Chartres". Huile sur toile. Paris, musée Carnavalet.

こちらは「庭園の見どころをシャルトル公に解説するカルモンテル」。工事はまだ完了していない様子で、前景では自然風の小川のほとりで作業を続ける人々がいますが、古代の遺跡風の建物や、やはり古代ローマやギリシャを思わせる列柱、遠くにオランダの風車のようなものや、さまざまな庭園建築がてんこ盛りにひしめいています。


プランを見るとこのような感じに、緩やかな曲線の遠路が庭園内の見どころを繋いでいます。

フォリー、またはファブリック(庭園建築)

アングロ=シノワ式庭園(ジャルダン・アングロ=シノワ)というのはあまり聞き覚えがない庭園のスタイルではないかと思いますが、フランス整形式庭園が一世を風靡した後の18世紀中頃、イギリスの風景式庭園の影響を受けてフランスで作られた庭園のスタイルを言います。

左右対称の幾何学的な構造から脱出し、曲線の園路に沿って、美しい自然な田園風景の中を緩やかに散策できるような庭が作られるようになりました。その絵画に描かれるような理想の自然風景の演出の要になったのが、フォリー、またはファブリックと呼ばれる様々な庭園建築やモニュメントです。

グロットと呼ばれる人工の洞窟や、中近東や中国などの遠い国々の異国情緒(シノワはフランス語で中国の、という意)や、古く歴史を遡った古代ローマの遺跡などが、緑とともに、庭園の中に憧れの遠い時空間の風景を演出したのです。


こちらはカルモンテル自身が出版したこの庭園についての書籍の挿絵から。オランダの風車やイスラムのミナレット、木立に隠れた墓標やオベリスク、ノーマキアと呼ばれる円形の列柱に囲まれた池など、当時の人々にとっては驚きの連続であっただろう、世界の名所を集めた夢の国が展開します。

ノーマキア、古代ローマの模擬海戦

上の挿絵の右下がノーマキアと呼ばれるファブリックなのですが、このモニュメント、実は現在もちゃんと見ることができます。

ノーマキアとは古代ローマ皇帝が模擬海戦を行った池のことだそう。皇帝のみに許される大掛かりな余興からインスパイアされたこの池のしつらいは、シャルトル公を喜ばせたに違いありません。モニュメントに使われている円柱は、遡ってカトリーヌ・ド・メディシスが、王家の菩提寺であるサン・ドニ聖堂の近くに作らせようとして未完のままに終わっていた夫アンリ2世のための霊廟の一部がリサイクル利用されたのだそうです。

ノーマキアの中島には当時立っていたオベリスクはなくなって、今は柳の大木が鎮座しています。

王室と激しく対抗したとはいえシャルトル公も王侯貴族だったゆえ、フランス革命からは逃れ切れず、マリー・アントワネットと同様に、断頭台の露と消えます。庭園は政府に押収され、その後の王政復古期にはオルレアン家に戻されるなど紆余曲折の歴史を辿ったのち、19世紀の第二帝政期には、パリ大改造の一環で現在の姿が形作られることになります。

長くなりましたので、次回に続けますね。ではまた!

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